大学で長く教員養成に携わり、その後、看護師養成にもかかわるようになって、私は学生の実習について考えることが多くなった。
教員をめざす学生には教育実習があり、看護師をめざす学生には看護実習がある。どちらも、教室で学んだ知識を実際の現場で確かめ、将来の仕事に必要な力を身につけるための重要な学びである。教育実習では、学生は教壇に立ち、授業を行い、子どもたちと接する。授業案どおりに進まない難しさや、一人ひとり異なる子どもに向き合うことの大切さを知る。わずかな期間であっても、実習を終えた学生の表情には、教師になることへの自覚が表れる。
看護学生の実習も、基本的には同じ目的をもっている。学生は病院や福祉施設、訪問看護や地域の支援機関などに出向き、患者や利用者に接する。成人看護、老年看護、小児看護、母性看護、精神看護、在宅看護など、実習の場は幅広い。子どもから高齢者まで、また、比較的健康な人から重い病気を抱える人まで、さまざまな人と出会うことになる。
しかし、教員養成と看護師養成の両方にかかわってきた私には、卒業時の学生の姿に、どこか異なるものが感じられた。
入学した頃には、まだ高校生らしさを残していた看護学生が、卒業する頃には見違えるような表情を見せることがある。言葉遣いや立ち居振る舞いが変わるだけではない。人の話を受け止める姿勢や、相手を気遣う態度に、以前にはなかった落ち着きが感じられる。顔つきにも、専門職として社会に出ていこうとする覚悟のようなものが表れてくる。
もちろん、すべての学生が同じように変化するわけではない。また、教育実習でも、学生は子どもとのかかわりを通して大きく成長する。したがって、教育実習と看護実習のどちらが優れているかを比べることに意味はない。それぞれが、異なる人間との出会いと責任を学生に経験させるからである。
それでも、看護実習には、ほかの実習では経験することの少ない何かがあるように思われる。
学生が病室で出会うのは、教科書に書かれた「患者」ではない。病気になる前には仕事をもち、家族を支え、さまざまな喜びや悩みを抱えて生きてきた一人の人間である。その人が、身体の自由を失ったり、痛みに耐えたり、これまでできていたことができなくなったりしている。学生は、その人のそばに立ち、声をかけ、身体に触れ、ときには言葉にならない思いを受け止めようとする。
そこで問われるのは、注射や測定などの技術だけではない。「この人はいま、どのような気持ちでいるのだろうか」「自分には何ができるのだろうか」という問いである。正しい答えがすぐに見つかるとは限らない。励まそうとしてかけた言葉が、かえって相手を傷つけることもある。何も言えず、ただそばにいることしかできない場合もある。
さらに看護の現場では、人が回復していく姿だけでなく、病気が進行し、死に近づいていく姿に接することがある。昨日まで話していた患者の容体が急に変わる。治療を受けても回復が難しい人に出会う。家族が別れを受け入れようとする場面に立ち会うこともあるだろう。
二十歳前後の若者にとって、人の死は、多くの場合、まだ遠い出来事である。自分も、身近な人も、これから先ずっと生き続けるように感じている。しかし、看護実習では、その感覚が揺さぶられる。人の身体には限りがあり、命には終わりがあることを、知識としてではなく、一人の人間との出会いを通して知らされるからである。
死に向き合うことは、決して死だけを考えることではない。むしろ、限りある時間を人はどのように生きるのか、病気や障害を抱えていても、その人らしく生きるとはどういうことかを考えることにつながる。患者の死を身近に感じることで、学生は逆に、生きていることの重みを知るのではないだろうか。
看護学生が実習を終えて成長して見えるのは、多くの技術を身につけたからだけではない。自分とは異なる人生を生きてきた人に出会い、その人の苦しみや希望に触れ、自分の未熟さや無力さにも向き合ってきたからであろう。
人を支える仕事では、知識と技術が欠かせない。しかし、人は知識や技術だけによって支えられる存在ではない。目の前にいる人を、一人の人間として受け止めようとする姿勢が必要になる。
看護実習は、学生に看護の方法を教えるだけではない。人が生きること、老いること、病むこと、そして死ぬことを考えさせる。その問いに簡単な答えはない。それでも、答えのない問いを抱えながら人のそばに立とうとする経験が、若者を少しずつ大人へと育てていくのである。