
古くから母子像や宗教画に描かれる聖母マリアは、しばしば左腕に幼子イエスを抱いている(図1)。偶然の構図と思われがちだが、この「左側抱き」には人間の生理と心の働きが深く関わっていることが、心理学や神経科学の研究から明らかにされつつある。では、なぜ母親は自然に赤ん坊を左胸に抱くのだろうか。
この問いを最初に科学的に検討したのは、アメリカの心理学者リー・ソーク(Lee Salk, 1973)であった。彼はニューヨーク動物園で観察したサルの母子行動からヒントを得て、人間の母親の抱き方を体系的に調べた。その結果、右利きの母親の約83%、左利きの母親でも約78%が、赤ん坊を左側に抱いていた。つまり、利き手の違いとは無関係に、左胸側への抱き方が圧倒的に多いことが示されたのである。ソークはその理由を「母親の心臓の鼓動」に求めた。胎内で聴いていた母親の心拍音が、出生後も赤ん坊を落ち着かせる「リズム的安心刺激」として働くのではないかと考えたのである。
ソークの説はいわば「心臓仮説」と呼ばれる。赤ん坊が母親の左胸に近い位置で心拍を聞くことにより、胎内記憶に似た安心感を得るというものである。その後の研究でも、この仮説を支持する知見が報告されている。たとえば、Salkの弟子であるWeilandとSperberは、母親が不安や緊張状態にあるときほど左側に赤ん坊を抱く傾向が強まることを報告した。これは、ストレス時に心臓拍動が母親自身をも鎮静化させ、同時に赤ん坊にも安心を与える可能性を示唆している。
その後神経心理学や発達科学の進展により、「左側抱き」は単なる心拍音の影響だけではなく、右脳の情動処理優位とも関係することが明らかになってきた。右脳は表情の読み取りや情動共感を担う領域であり、赤ん坊を左側に抱くことで、母親の視野に赤ん坊が右脳側に入りやすくなる。近年のfMRI研究でも、左側抱きの際には母親の右脳の前頭眼窩野や島皮質がより強く活動し、赤ん坊の情動信号を敏感に察知していることが報告されている(Bourne & Todd, 2004)。このことから、「左側抱き」は心拍の安心効果に加えて、母親と子どもの情動的同期(emotional attunement)を高める役割をもつと考えられている。
一方で、すべての母親が左側に抱くわけではない。文化や個人差によって右側抱きを示す例もある。添付の図(図1)に示した4枚の母子像のうち、3枚は左側抱きであるが、1枚のみ右側抱きで描かれている。右側抱きが意図的に描かれた可能性もあるが、宗教画においては画面構成上のバランスや象徴性も加味されるため、一概に生理的要因だけで説明することはできない。しかし、時代や地域を超えて左側抱きが圧倒的に多いことは、ソークの指摘する「母親の行動としての普遍性」を裏づけるものといえる。
また、最近の研究では、この左側抱きが父親や養育者にも共通してみられることが報告されている。ただし、男性ではその傾向は弱いことが示されている(Packheiserら, 2019)。
こうした知見は、看護や福祉の現場においても示唆的である。新生児看護において、母親が自然に左側に抱く姿勢をとることは、単なる姿勢の問題ではなく、親子の絆形成や情動の安定に直結している。授乳やスキンシップの場面で、母親の心拍や呼吸のリズムが赤ん坊に伝わることで、双方の自律神経が同調し、安心感が生まれる。つまり、左胸に抱くことは、生理的・心理的・文化的な意味を併せもった「共鳴の姿勢」であるといえる。
このテーマは一見古いように見えるが、近年では神経科学・進化心理学・社会的認知研究など、複数の領域で再び注目を集めている。母親が赤ん坊を左胸に抱くという行為の背後には、心拍・情動・脳機能が織りなす複雑な生物心理学的プロセスが存在する。人類史の長い時間を通じて受け継がれてきた「左側抱き」は、単なる習慣ではなく命をつなぐための自然な知恵なのである。