お盆になると、各地で帰省ラッシュのニュースが流れる。駅や空港では、大きな荷物を抱えた家族を、祖父母が笑顔で迎えている。久しぶりに会う娘や息子、そして少し見ない間に大きくなった孫たち。迎える側の両親にとって、これほど嬉しい時間はないだろう。
ところが、数日の滞在が終わり、子どもや孫たちを見送ったあと、家に戻った高齢の夫婦には、何ともいえない気持ちが残る。急に静かになった部屋には一抹の寂しさが漂う。しかし、それと同時に、「やっといつもの生活に戻った」という、ほっとした気持ちもある。寂しいのに、ほっとする。少し不思議な感情である。
帰省した娘の姿を見ていると、さらに興味深いことに気づく。都会では家庭をもち、子どもを育てている一人前の「母親」であるはずなのに、実家に帰った途端、いつの間にか昔の「娘」に戻っている。母親に何かを頼み、父親に昔と同じ調子で話しかけ、自分の子どもと一緒になってはしゃいでいる。
心理学的にみれば、これは家族役割の再活性化と考えることができる。人は成長とともに新しい役割を獲得していくが、昔の役割が消えてしまうわけではない。実家という場所、親の顔や声、昔から変わらない食卓などをきっかけに、「親の子どもであった自分」が再び顔を出すのである。
そして、娘が安心して「娘に戻れる」ためには、一つの大切な条件がある。それは、両親が今も元気で、実家が以前と同じように存在しているという安心感である。愛着理論の言葉を借りれば、実家や親が成人した子どもにとっても一種の安全基地として残っているのである。もし親の病気や老いが目立ち、今度は自分が親を支えなければならない状況であれば、昔のように無邪気な娘に戻ることは難しいだろう。
しかし、迎える親の側には別の現実がある。気持ちは昔と変わらなくても、身体は確実に年齢を重ねている。食事を整え、孫の相手をし、いつもより遅くまで話をする。楽しい時間であると同時に、体力も気力も使う。高齢期には、毎日ほぼ同じ時間に起き、食事をし、休むという生活のリズムそのものが心身の安定を支えている。老年心理学の連続性理論からみれば、「いつもの暮らし」が保たれることには大きな意味がある。
だからこそ、子どもや孫を見送ったあと、「寂しい」と「ほっとした」が同時にやってくる。心理学では、相反する感情が同時に存在することを両価的感情(ambivalence)という。嬉しかったからこそ疲れ、愛おしいからこそ別れが寂しく、そして疲れたからこそ日常に戻ってほっとする。どれか一つが本当の気持ちなのではない。すべてが本当なのである。
さらに、孫の姿には、かつて幼かった娘の姿が重なることもあるだろう。そこには、自分たちが育てた子どもが親となり、さらに次の世代が育っているという世代継承性の感覚もある。
帰省とは、単に離れて暮らす家族が集まることではないのかもしれない。一年のうちのわずかな時間、家族の時計が少しだけ昔へ戻り、父と母は再び「親」となり、母親になった娘も再び「娘」になる。そして孫という新しい世代を囲みながら、過去と現在が一つの食卓に並ぶ。
やがて別れが来て、それぞれが自分の日常へ戻っていく。
「来てくれて嬉しかった。でも、少し疲れた。帰ってしまうと寂しい。でも、どこかほっとする。」
その何ともいえない気持ちこそ、長い時間をともに生きてきた家族だからこそ味わうことのできる、複雑で豊かな感情なのかもしれない。
