疑わしきは罰せず、しかし心は納得しない――帰無仮説から見た日本人

沖縄で暮らしていると、米兵による飲酒がらみの交通違反や事故の報道に接することがある。もちろん、ここで基地問題そのものを論じようとしているのではない。私が考えてみたいのは、事件そのものとは少し別のことである。なぜ、明らかに問題があったように見える場合でも、当事者はすぐには自分の非を認めないことがあるのか。そして、その態度に、私たち日本人はなぜ強い違和感を覚えるのか、ということである。

この問題を考えていると、心理統計学で学ぶ「帰無仮説」という考え方が頭に浮かぶ。帰無仮説とは、ある現象が本当に生じているかを確かめるとき、まずは「それは生じていない」と仮定する考え方である。たとえば、ある薬に効果があるかどうかを調べる場合、最初から「効果がある」とは考えない。まず「効果はない」と仮定し、その仮定を覆すだけの十分な証拠が得られたとき、はじめて「効果がある」と判断する。少し回りくどいように見えるが、これは思い込みで結論を出さないための大切な手続きである。

この発想は、裁判制度における「推定無罪」の考え方とも、どこか通じている。もちろん、帰無仮説と推定無罪は同じものではない。帰無仮説は統計学や科学的方法の考え方であり、推定無罪は法制度上の原則である。しかし、どちらにも「十分な証拠が示されるまでは、あるとは言えない」という発想がある。法の場面では、疑わしいというだけで人を罰することはできない。事実を示す責任は、訴える側、あるいは立証する側にある。

たとえば、飲酒運転で検挙された場合でも、本人が最初からそれを認めるとは限らない。アルコール検査の数値、運転状況、目撃証言などがそろってはじめて、事実は確定されていく。罪状認否で “I’m not guilty.” と主張することも、道徳的に「私は何も悪くない」と言い張ることとは、必ずしも同じではない。法の場面では、「私が有罪であることを、証拠によって示してください」という立場を取っているとも言える。

このように考えれば、「最初から認めない」という態度には、法的には一つの合理性がある。証拠が十分でなければ、有罪とは言えない。これは、権力による誤った処罰を防ぐための重要な原則でもある。たとえ疑わしく見えても、確かな証拠なしに人を罰することはできない。その意味で、推定無罪の発想は、近代社会が築いてきた重要な知恵である。

しかし、この考え方は、日本人の日常感覚には必ずしもすんなり入ってこない。日本では、事実関係が完全に確定する前であっても、「まず迷惑をかけたことを謝る」「相手の気持ちを受け止める」「場を収める」という態度が重んじられてきた。誰かとぶつかったとき、こちらにどれだけ過失があったかを厳密に確認する前に、「すみません」と口にすることがある。それは、必ずしも全面的に非を認めたという意味ではない。相手との関係を壊さないための、社会的な身ぶりでもある。

ただし、「まず謝る」文化にも危うさはある。事実が十分に確かめられないまま、場の空気によって責任を引き受けてしまうことがあるからである。謝罪は人間関係を整える働きをもつ一方で、時には責任の所在を曖昧にしたり、弱い立場の人に過剰な負担を負わせたりすることもある。だから、日本的な謝罪の感覚を、ただ美しい文化として片づけることはできない。

一方で、証拠の論理だけで人間関係が成り立つわけでもない。たとえ法的には「まだ認める必要はない」としても、被害を受けた側や周囲の人々は、その態度に冷たさや不誠実さを感じることがある。人間は、事実の証明だけで相手を判断しているわけではない。表情、言葉、態度、謝罪の有無を通して、その人の誠意を感じ取ろうとする存在でもある。

ここに、証明する文化と謝る文化のずれがある。証拠を積み上げて事実を確定する考え方は、近代的な法制度や科学的思考を支えている。一方で、関係性の中でまず態度を示す考え方は、日本人の日常的な対人感覚の中に深く根づいている。どちらか一方が正しく、どちらか一方が遅れているという話ではない。むしろ、両者は人間社会にとって、どちらも必要な知恵なのだろう。

帰無仮説は、私たちに「思い込みで判断しない」ことを教えてくれる。人は、見たこと、聞いたこと、感じたことを、すぐに事実だと思い込みやすい。しかし、科学の世界では、その直感に一度ブレーキをかける。まずは「そうではないかもしれない」と考え、証拠を積み上げていく。これは、冷たい論理ではなく、誤った判断を避けるための知恵である。

しかし同時に、人間の心は、証拠だけで納得するわけではない。人は、相手がどのように向き合おうとしているのかを見ている。事実を確かめる冷静さと、相手に向き合う感受性。その両方をどう持ち合わせるかが、現代を生きる私たちに問われているのではないだろうか。

日本人は、明治以降、西洋的な法制度や科学的思考を取り入れてきた。しかし、その根底には、関係性を重んじる文化も息づいている。帰無仮説的な発想を拒む必要はない。むしろ、それは思い込みや感情的な断罪から私たちを守ってくれる。一方で、証拠の論理だけで人間の社会が整うわけでもない。疑わしきは罰せず、しかし心は納得しない。その小さなずれの中に、私たち日本人のものの見方が表れているのかもしれない。